参政党党首・神谷宗幣氏の「発達障害は存在しない」という発言。 この言葉だけを切り取れば、発達障害児を育て、自らも特性を抱える私が、なぜ彼を支持し、共に歩もうとするのか、奇異に映るかもしれません。
しかし、言葉の表面にある「泥」を払い、その深淵にある「真意」を読み解くとき、そこには現代社会が陥っている巨大な「依存の罠」が見えてきます。
■ 「ラベリングの乱用」への静かなる危機感
私は「発達障害」という概念そのものを否定しているわけではありません。 むしろ、我が子を育て、自分自身の複雑な特性と向き合う中で、その言葉は一つの「解釈の灯」として私を救ってきました。
しかし、昨今の医療現場や教育現場における、「何でもかんでも発達障害」と診断を下す風潮には、強い懐疑心を持っています。
発達障害とは、本来一人ひとりの特性が異なる、極めて個性的なグラデーションです。それなのに、最近は診断名という「枠」が広がりすぎ、個人の可能性をその枠内に閉じ込めてしまっているように感じてなりません。
■ 曖昧になる境界と、失われる「理解の深度」
かつての教育現場では、知的遅れの有無や社会性の特性によって、明確な区分がありました。 しかし現在では、その境界が曖昧になり、明らかに重度の自閉的特性を持つ子であっても「発達障害」という便利な言葉で一括りにされるケースが増えています。
親が悪いわけではありません。ただ、「自分の子の特性」という本質を深く理解しようとする前に、手軽な診断名という「言葉」だけが独り歩きしている現状に、私は拭いきれない違和感を覚えるのです。
■ 娘に伝えてきた「言葉の定義」
私は、娘に特性があることを一度も隠したことはありません。しかし、その伝え方には細心の注意を払ってきました。
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発達障害は、あなたの「個性を説明するための辞書」である。
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それは「病気」ではない。
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「できないこと」があるなら、それを「できる方法」を、知恵を使って探せばいい。
なぜ、病気という言葉を避けたのか。 それは、「病気だから仕方ない」という免罪符を手にした瞬間、魂に「諦め」と「言い訳」の癖がついてしまうと確信していたからです。
■ 神谷氏の発言を、どう「ハック」したのか
神谷氏の「発達障害は存在しない」という言葉を、私は**“診断名という名の『檻』への問題提起”**として受け止めました。
先日、神谷氏はSNSでこう述べていました。
「なんでもかんでも病気のように扱うのではなく、それぞれの強みや個性と捉えていきましょうという意図でした。」
この一言に、私の確信は裏付けられました。 彼は存在を否定したのではなく、**「個性を医学の管理下に置くな」**と叫んでいるのです。
■ 障がいを「アイデンティティ」という名の鎖にしない
「発達障害」という言葉にアイデンティティを求めている人々にとって、神谷氏の言葉は攻撃的に響くかもしれません。 しかし、私はあえて言いたい。障がいをアイデンティティ(自己の証明)にしてしまうことこそ、最も危険な依存であると。
発達障害は「その人の特性を説明する属性」であって、その人の「魂の価値」を決めるものではありません。 障がいを“自分そのもの”というアイデンティティにしてしまったとき、人は自らの限界を自分で定義し、魂の自由を自ら手放してしまうことになるのです。
■ 終わりに──「魂の自立」を目指して
私が危惧しているのは、以下の三点です。
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効率を優先し、安易に「障害」の判を捺す医療。
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診断名というフィルターを通してしか子供を見ない社会。
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子供の「本質」を理解せず、言葉という免罪符に縋る風潮。
神谷氏の発言は、確かに極端に響くかもしれません。しかし、その裏にある「個の尊厳への回帰」という意志は、参政党が掲げる「自立」という背骨そのものです。
私は、当事者として、そして一人の文筆家として、この国のOSを書き換えていきます。 「診断名」に縛られる社会から、「個の輝き」を最大化させる社会へ。
私のペンは、その変革のためにあるのです。